長崎の淵龍山 天福寺 公式ホームページです。天福寺の歴史、言葉、施設、宗旨等を紹介しております。
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長崎 淵龍山 天福寺ホームページへようこそ

こちらは長崎の樫山にある曹洞宗天福寺公式ホームページになります。
長崎、曹洞宗天福寺の歴史、言葉、施設、宗旨等を紹介しております。
徳川禁教令から廃止後の歴史。
長崎、曹洞宗天福寺は信仰の歴史と真実の証がここにあります。

隠れキリシタンの隠れ蓑の寺として三百二十三年の間寒苦を共に分ち合い生きてきた。
檀信徒の信仰という糧により今ここに福聚殿という花が咲きそして実を育て次の世代に相続出来る喜びを共に分かち合いたい。
そんな意味に受け止めて頂ければ幸いです。

淵龍山 天福寺 沿革

元禄元年(一六八八年)深堀菩提寺七世「天瑞萬奇大和尚」が天福寺を開山する。

当時この地域の住民の殆どがキリシタン信者であり、寛永十七年(一六四〇年)の寺請檀家制度の実施により、大村藩主第二十二代純長は承応二年(一六五三年)真宗「光照寺」(神浦)、万治三年(一六六〇年)真宗「正林寺」(三重)を建立した。
深堀藩鍋島茂春も飛び地領であった樫山に天福寺を建立せざるを得なかった。

当時の檀家数は記録がなく詳細は不明であるが、明治八年発行の寺院明細には五百六十五戸の記録が残っているが、大正七年発行の三重郷土史によると「明治初年佛国式天主教侵入するに及び檀徒の過半数を奪われ、該寺は孤城落日の姿なり」と記載されている。

昭和三十年頃の記録では檀家数東樫山七十戸、畝刈の垣内約二十戸、黒崎・出津約百戸程と記載があるが、その大部分が隠れキリシタンの組織に入っており、純粋な仏教徒とは異なっている状況の中で経済的にもかなり厳しい現実があった。

その後、昭和五十年代初めより、各地区の隠れキリシタンの指導者不在と重なり、天福寺への集団改宗が行われ、正式に仏教徒として新たに生きる人達 更に住職の仏教に対する真摯な取り組みに共鳴し、現在九百を越える檀信徒が天福寺を支えている。

天福寺_沿革資料01(1)伽藍については、明治の寺院明細には、本堂四間・二間半、庫裡と境内は東西十八間・南北十四間、反別八畝十二歩とかなり小規模の伽藍であった。(右画像)

天福寺_沿革資料02(2)昭和元年に本堂改築、昭和五十四年以後、本格的な伽藍整備に取り組み、本堂新築(昭和五十四年)、庫裡新築(昭和五十七年)、墓地新設・駐車場整備(昭和六十年)、鐘楼堂建設(平成七年)、庫裡増築(平成二十年)、菩薩道新設(平成二十一年)、檀信徒会館建設(平成二十三年)に至っている。(右画像)

わたしのお寺の宗旨は

天福寺_お寺の宗旨(3)

一、名称
曹洞宗(禅宗)と申します
一、伝  統
曹洞宗は釈迦牟尼佛(しやかむにぶつ)より代々の祖師がたが相承(うけつ)がれて来た仏法(おしえ)であります
一、日本開宗(にほんでのはじまり)
曹洞宗は今から七百六十年ほど前に高祖道元禅師(こうそどうげんぜんじ)さまが我国に開創れ、四代目の太祖瑩山禅師(たいそけいざんぜんじ)さまが盛んになされました このお二方は宗門の父母にも当るお方ですから両祖大師(りようそだいし)と申上げます
一、 大本山
越前(福井)の永平寺(高祖道元禅師(こうそどうげんぜんじ)さま御創立)鶴見(横浜)の総持寺(太祖瑩山禅師(たいそけいざんぜんじ)さま御創立)
一、本  尊
曹洞宗は釈迦牟尼佛(しやかむにぶつ)を御本尊と仰ぎます
一、本尊唱名
南無釈迦牟尼佛(なむしやかむにぶつ)
一、教義(おしえのたてまえ)
私たちは誰でも仏心を具えております
しかしそれに気づかずに我侭な生活を繰り返していることが悩み苦しみのもとであります
反省し懺悔してお釈迦さまの御教え両祖さまのおさとしにみちびかれ自分の正しい姿に目覚めましょう
佛さまに帰依して心が落ち着くとおのずから生活が調えられて人生が明るくなり仏心に目覚めて社会のお役に立つことを喜びどんな苦難にも耐えてゆこうとする信念が強まります
そこに生甲斐と幸福とを発見するのがわが曹洞宗の教義であります
一、お  経
修証義・般若心経・観音経・寿量品等の諸経を読誦致します

天福寺歴代住職

開山 天瑞萬奇大和尚
一世 古岳日峻大和尚
二世 愚谷恒神大和尚
三世 霊光分明大和尚
四世 石橋神仙大和尚
五世 錦紐智嚢大和尚
六世 錦鳳弘賢大和尚
七世 活潭俊龍大和尚
八世 超宗智越大和尚
九世 祖燈傳之大和尚
十世 法城弘喜大和尚
十一世 祖峰秀見大和尚

 

所在地

長崎市樫山町887

天福寺スライドショー

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